「女性セブン」補遺 2

 昨日に引き続きで「女性セブン」に掲載の「樹木希林さん100冊だけの本棚」

から話題をいただくことになりです。

 当方は樹木さん(というよりも悠木さんというほうがいいかな)と長谷川四郎

さんとのことに関心がありまして、それの関わりで芝居関係者としての津野海

太郎さんのことについてあれこれと思いをめぐらすことになります。

 悠木さんは、高校を卒業してすぐに文学座演劇研究所の一期生となるのです

が、その同期には草野大悟小川真由美橋爪功寺田農北村総一朗という

そうそうたるメンバーがいて、演劇エリートの卵となるのです。

 志は高いもののなかなか自分たちの芝居をやるところまではいかずで、仲間

と六月劇場を結成することになります。

 このへんのことについては、津野海太郎さんが「おかしな時代」で書いていま

すし、新潮社のWEB「考える人」に連載している「最後の読書」18回目では、

樹木希林さんとのことについて書かれています。樹木さんについて、このように

書くことができるのは、もう津野さんくらいしかいないのかもしれません。

kangaeruhito.jp

おかしな時代

おかしな時代

 

  悠木さんのまわりは演劇エリートばかりでありますので、そうした人たちから

刺激を受けて学習をすることになりです。四郎さんとの対談でも語られていまし

たが、「私は、長谷川さんの本、たいてい読んでいるつもりです。たいしてわかん

ないけど。『中国服のブレヒト』あれ好きで」なのだそうです。

 この対談が行われたのは、1975年9月(日付は不明)だそうです。場所は、

新宿・エスパース土曜(ギャラリー)で、この時の四郎さんは66歳となります。

当時の悠木さんは、テレビドラマの人でありました。

 悠木さんと四郎さんの出会いは、たぶんこの十年くらい前に、悠木さんが

参加した「六月劇場」で四郎さんの作品を取り上げることになってからでしょ

う。六月劇場と長谷川さんのつながりは、この劇団の演出家であった津野海

太郎さんの仕掛けとなります。

 福島紀幸さんの「ぼくの伯父さん」には、津野さんの文章が引用されていま

した。

「66年には旧『独立劇場』のメンバーに加えて、文学座若手俳優の参加を

えて『六月劇場』をスタートさせた。そこでなぜ長谷川さんに台本を書いてもら

うことにしたのか。ほかの人たちにくらべて、長谷川さんが芸術的にも実行的

にも、めちゃくちゃ過激に思えたこともあるし、晶文社で『長谷川四郎作品集』

全四巻の刊行がはじまり、長谷川さんとのつきあいが深まっていたこともある。

だが、それよりもなによりも、長谷川四郎という独特のひとの魅力を、身近な

演劇人たちにぜひ体験してほしいという気持ちがつよかった。」

 津野海太郎さんは、新日本文学の事務局スタートで、そのあと晶文社の編

集者をしながら、小劇場運動に関わるのですが、晶文社では四郎作品集を作り

ながら、六月劇場では四郎さんの脚本の演出をすることになっていました。

 「自由時間」での対談で、悠木さんは、次のようにいっています。

「私、芝居やっておもしろいなと思いだしたのは、六月劇場でブレヒトものを

やってからです。『夜うつ太鼓』にちょこっと出て。それから長谷川さんの『審判

ー銀行員Kの罪』。」

 これを四郎さんは、次のようにうけます。

「あの芝居(『審判』)はいいよ。幕合でも、あなたが歌うたってたのを覚えて

いるよ。マリー・アブラハムの歌。」

 10年たっても、四郎さんは悠木さんの芝居を覚えていたのでありますね。

 ということで、ここまでのところに樹木さんの本棚にあった四郎さんの本の

六冊がほとんどが姿をあらわしてきたことになりです。それで、当方の本棚か

らそれらをひっぱり出してきて、ならべてぱちりです。

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