東京だから嫌いになる

 「みすず」4月号に掲載の五十嵐太郎さんの「東京論」は、前回を承けての

「オリンピックは都市を変えるのか」であります。前回がどのようなことを書いて

いたのかと思いながら、まずは、今回の文章を走り読みすることにです。

(前回掲載は2019年12月号でありますので、この文章が書かれたのは世界

がコロナで混乱する前のことでありましたが、今回の文章にはコロナ・ウィルス

の流行拡大という言葉が挟み込まれていました。)

 五十嵐さんは、今回の東京オリンピックプロジェクトがどれだけ東京の都市

デザインに影響を与えるかということについて考え続けているわけであります。

今回のオリンピックで一番話題になったザハ・ハディドさん設計の競技場案を

結果的に葬るに力を貸したような結果になったことを悔いることになっている

のですが、まずはそこのところを引用です。

「筆者は、新しい建築プロジェクトが議論を巻き起こすことは大きな意味がある

と考えている、それゆえ当初、筆者は槇の呼びかけに賛同し、『新国立競技場

に関する要望書』に名前を連ねたことを告白しておく。・・・

正直、案がひっくりかえることはないと思っていたが、東京に新しく誕生する

建築に対する一般の議論を広めることに意義を感じていたからである。

しかし、その後これが想像以上にメディアで過熱し、首相の思惑によりほんとう

にコンペの結果がキャンセルされたことを受けて後悔することになった。叩かれ

ながらも、ハディドの競技場はデザインの修正を経て完成し、やがて広く受け入

れられるべきだった。」

 考えも何もないひとたちが上にいるわけですから、都合が悪くなりましたら、

まるで手のひらを返したようになることは、その後よくある話になるのですが、

この時点では、まだそうではないと思われていました。

「現在の日本で起きていることは、ガセネタでもなんでもよいから気にいらない

案件を炎上させ、専門家が時間をかけて構築してきたプロジェクトを引きずり

おろす一時のカタルシスに熱狂する文化革命的な祭りであり、終わった後には

何も残らない。」

 このように書いてから、死んだ子の年を数えるようにハディドの案が現実の

ものとなったときの、インパクトについて展開していくわけであります。

そして、今回の結語であります。

「日本の地方都市はまだ危機感ゆえか実験的な建築がつくられているが、

東京は経済原理が優先し、思いきった冒険的なプロジェクトがない。

同じ2010年代に話題になったのは、日本らしさを金科玉条とし、東京駅の復

元や日本橋の上の首都高の地下化など過去を美化する後ろ向きの計画だっ

たそして日本の地方都市は、おきまりの店舗を並べる商業施設をつくることで

『東京』のまねをしないほうがいいと思う。だが、いまの東京はまるで『東京』を

模倣する地方都市の拡大版のような状態に陥っているのではないか。」

 東京へのあこがれを込めて「東京だから嫌いになる 綺麗すぎて困る」

と歌った人たちがいるのですが、東京は地方都市化していて、世界との差は

開く一方であるのかな。