そういえば、先月に届いた「みすず」はほとんど手にしていないことがわかり
ました。これは「みすず」が届いた9月5日頃に池内紀さんの訃報が伝わってき
たことと関係がありそうです。
「みすず」は例月かなり読み応えあり(ちょっとありすぎるとこもです)なので、
気合をいれて読まなくては、めげてしまいそうになりです。数日前から池内さん
の「ヒトラーの時代」を読んでいますが、9月号には「『ナチス 破壊の経済』
発刊に寄せて」という山形浩生さんの文章が掲載されていました。
これは、まるでスルーしていたことに今ころになって気づきました。これは読まな
くてです。
ということで「みすず」10月号でありますが、今月はこれまでのところ、二つの
文章を読みましたです。一つは松本俊彦さんの「失われた時間を求めて」という
もので、もう一つは五十嵐太郎さんの「皇居に美術館を建てる」というものです。
松本さんの文章は、かって自殺予防の研究をしていたときの経験を書いたも
のとなります。松本さんの文章にある、次のようなくだりに共感を覚えます。
「 なぜ自殺と向き合いたいと考えていたのか。
精神科医であれば誰でも、心のなかに自殺した患者の墓標をいくつか抱え
ているはずだ。そうした墓標群はふだん不気味な静けさを漂わせているが、何か
の拍子に、記憶の棺桶を隠している盛り土が風に舞い、地表に棺桶の一部が露
出することがある。そのたびに心に疼きというか、痛みに近い感覚が走り抜ける。」
「精神科医」と「患者」という言葉を、どちらも「人」に置き換えれば、これは当
方にも共通の思いであります。この時代に、身近な人で自殺した人がいないなん
てことはないでありましょう。
自分にそんな力があるのかと思いながらも、あのときに、ちょっと話をしていれ
ば、違った結果になったのではないかと思ったりするのであります。すでに亡く
なって何十年も経過したというのにです。
松本さんの文章から、またまた引用です。
「最後の瞬間まで彼らは人とつながるツールを意識していたのだ。もしもそこに
誰かからのメールが、あるいは着信音があったなら・・もちろんそれはわからない
が、彼らがさいごまで迷っていたことは明らかだ。」
橋に設置されたカメラに映っている欄干から飛び降り自殺をしようとしている
人が最後に手にしていたのは、携帯電話であったということから、上のように書く
のですが、自殺しようという人も、またつながることを求めているのですね。