無責任な読書

 興味の赴くままにの読書(といえるのかどうかであります。つまみ

読みというのがあたっているかな)です。正しい読書(なんてことが

あるとして)からは、はるかに遠いものとなっています。

 本日にここで話題とするのは、昨日に引き続きで「柳田國男全集」

別巻1 年譜を眼にしていてのことです。

 たとえば、何十年も前に読んだ山口昌男さんの「柳田に弟子なし」と

いう文章にある次のくだり。

「この様な潔癖感の持ち主(柳田のこと)もとって晩年は決して仕合わ

せではなかった様に思われるふしがあります。例えば、・・令孫(為正

氏の子息)を私立麻布高校に入れてもらうよう、自ら出向かれたという

事です。私立高校とはいえ、編入があらゆる人に開かれたチャンスでは

ない事は自ら明瞭でありましょう。ここでその令孫の母なる人物を登場

させてもよいのですが、名誉毀損のおそれがありますから、深入りはし

ません。『柳田の嫁でございます』と何処でも出ていき成城の三悪妻に

数えられているこの才女は、いずれ平野謙あたりが花田清輝にでもそそ

のかされて柳田論をやるときは、興味ある分析の対象になるでありま

しょう」

 「柳谷弟子なし」という文章で、こんな茶化した書き方をしているの

は、このくだりだけですが、当方は、ほかの部分はほとんど忘れている

のに、この「柳田の嫁でございます」というところだけが頭に残って

いるのです。まったく何を読んでいるのか。

 それで、まずはこの年譜に、この「柳田の嫁」がでてはこないかと

ページをめくることになりです。

 それは柳田66歳となる昭和16(1941)年12月3日にありました。

「為正が、大島冨美子と結婚する。冨美子は、外科医の大島仁の四女で、

安井英二夫妻の媒酌で、披露宴が午後5時から学士会館で行われる。」

  山口昌男さんが「柳田の嫁」といっているのは、この冨美子さんで

ありますね。父親の名前で検索をかけてもなにもヒットしないようで

す。媒酌人は内務官僚でその当時文部大臣をされていた人なのでしょう

か。

 それじゃ令孫はとなると、昭和17(1942)年9月8日に「為正と冨美子

の間に長男清彦が生まれる」とありまして、巻末の柳田家系図によりま

すと、この清彦さんは初代為春から数えて十三代目となるのだそうです。

 この方が、首尾良く「私立麻布高校」に入学できたかどうかは、わかり

ません。

 山口昌男さんは、麻布高校で教師をしていて、その頃の教え子には山下

洋輔さんがいるとのことです。山下さんは昭和17(1942)年2月生まれと

なりますので、柳田令孫が高校へと入学するときには、山口さんは麻布に

勤務していた可能性が大きく、「柳田の嫁でございます」というのは、

麻布高校では有名な話であったのでしょうか。 

 この時代にあれこれと詮索しても、名誉毀損になることはないでありま

しょう。 

柳田國男全集 別巻1 年譜 (シリーズ・全集)

柳田國男全集 別巻1 年譜 (シリーズ・全集)

 
人類学的思考 (1971年)

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