「松竹と東宝」

 先日まで光文社新書「松竹と東宝」を読んでおりました。

松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち (光文社新書)

 阪急グループを作った小林一三に関しては、数年前にTVドラマとなったりしました

し、読んではいないものの阪田寛夫さんによる伝記などもあって、なんとなくわかっ

たつもりをしておりましたが、いま一方の松竹兄弟については、ほとんど知るところ

がなく、どうして兄弟の一人が文化勲章を受けることになったのかと不思議に思って

おりました。

 どうこういっても東宝とか宝塚歌劇小林一三が作って、育てたものであります

が、松竹のほうは、双子の兄弟の役割分担とか映画部門を担った娘婿 城戸四郎の

存在もあって、ちょっとわかりにくいことになっています。

 この新書は、松竹兄弟が京都の芝居小屋の売店を経営する家に生まれて、その

才覚で次々と芝居小屋を手中におさめ、ついには歌舞伎興行を仕切るまでを描いて

います。

 松竹兄弟が関西の芝居小屋を支配して、東京へと進出するのは明治も終わり頃と

あります。東京の芝居小屋では、この松竹兄弟をどのように迎えたのであるかです

ね。いまでは、松竹の芝居小屋である歌舞伎座も、明治時代には、別の小屋主のも

のでありまして、その歌舞伎座をめぐる国盗り物語が、この本の一つの読みどころ

かと思いました。

 そういえば、何ヶ月か前に読んでいた岡本綺堂の「ランプの下にて」は、ちょう

ど松竹が初めて東京へと進出した頃の芝居見物記を収録しています。

明治劇談 ランプの下(もと)にて (岩波文庫)

「大切には初上りの中村鴈治郎がやはり歌舞伎座と掛持ちで出勤して、『近江源

氏』の盛綱を務める。・・・それでは新富座の盛綱はどかというと、わたしの

見物した日には、時間の制限のために大切の近江源氏はほんの口元だけで、・・

盛綱がこれからどれほどの技倆を発揮するか、わたしは遂にうかがい知ることが

出来なかった。・・

したがって、盛綱の方は観客に十分認められず、初上りの青年俳優に取っては

甚だ気の毒な結果を生み出してしまった。」

 関西の人気俳優 中村鴈治郎も最初の東京での舞台では、あまりうまくいか

なかったように読める岡本綺堂の文章であります。

 この中村鴈治郎の初上りが、松竹兄弟が、東京の興業界に存在感を示した

最初となります。 中村さんの「松竹と東宝」には、次のようにあります。

「かくして白井松次郎鴈治郎のマネージャーとしてだけでなく、東京でも興行

師としてデビューすることになった。・・鴈治郎歌舞伎座に出た。『盛綱陣屋』

では鴈治郎が盛綱、芝翫が篝火、『封印切』では鴈治郎の忠兵衛に芝翫の梅川と、

東西の成駒屋が、舞台の上では和やかに共演した。

 十月三日の初日から歌舞伎座は大入りとなり、松竹の東京初興業は成功した。」

 岡本綺堂さんが書くところとは、すこしニュアンスが違うようにも思いますが、

なんとなく、岡本さんの劇評のほうが同時代の東京の受け止め方のようにも思える

ことです。

 岡本さんの文庫本の巻末についている明治演劇年表の「明治44年8月」に次

のようにありです。

「松竹会社が歌舞伎座を買収せんとし、同座一部役員感に紛糾を生じたるが、

結局松竹が手を引くことになり和解す。」

 結局、松竹兄弟が歌舞伎座の経営権を手に入れたのは大正二年とのことです。