地球の裏側から

 ここのところ地球の裏側で開催されているオリンピックが一番話題でありまして、
時差のせいもあって、ほとんど24時間オリンピック漬けという感じであります。
 今回は日本選手たちの成績がよろしいので、選手強化にあたっている関係者たちは
ほっとしていることでしょう。それにしても四年に一度のオリンピックに、ピークを
もっていって結果を残すというのは大変なことであります。特に、国の威信を背負って
というのは、選手たちにとっては重圧となるようであります。
 その昔に、もう走ることができないという遺書を残し、自ら命をたった選手もいまし
たが、世界の頂点にたとうとしようとすると、大なり小なりそういうプレッシャと戦う
ことになるのでしょう。
 それにしても、オリンピックの会場を見ますと、日の丸とか必勝鉢巻きが目に入り
まして、そんなにがんばらんでもいいのではといいましたら、非国民といわれかねない
感じであります。
 オリンピックを頂点とするスポーツの振興に国が積極的なのは、愛国者を育てるため
であると思ってしまうほどです。
 ということで、昨日にたまたま手に取った本にあった文章です。
「なんの懐疑も知らないナショナリズムというのは、はなはだ奇妙な存在なのである。
ナショナリズムは、たえずそれを内部から規制していく普遍的な理念(たとえば精神の
自由)を伴わない場合には国家理性の絶対化を導き出すだけである。しかし幸いなこと
に、現在の憲法は、『国籍離脱の自由』も明記していてくれる。そこで、日本人である
という偶然を生涯守りつづける必要は必ずしもないのだということを、たえず心に銘記
しておきたいものである。・・・
 国家理性の神話を愛惜する声が、様々な扮装をこらしてふたたび登場しつつある昨今、
私としては、戦後ナショナリズムの傍白の一つを、ぜひここに書きとめておきたいと
思う。」
 「国会理性の神話を愛惜する声がふたたび登場しつつある」とあることからもわかり
ますように、この文章は、かなり古く、1965年10月に発表のものとなります。
筆者は萩原延壽さんで、みすず書房からでた「自由の精神」に収録されています。

自由の精神

自由の精神