Poetica 第三号

 富士川英郎さんを特集した小沢書店「Poetica」第三号を手にしていましたら、編集
部が記しています「雑司谷通信」に「第二号『篠田一士』特集が在庫切れとなり、ご
迷惑をおかけしました。読者カードで継続送付のお申し込みをくださった方が予想以上
に多く、せっかくカードをお寄せくださった方すべてにお送りできませんでしたことを
深くお詫びいたします。」とありました。
 富士川英郎さんを特集した「Poetica」に篠田さんの文章がないのは淋しいのですが、
その時にはすでに亡くなっていたのでした。そう思っていましたら、本日はなんと篠田
一士さんの祥月命日でありました。亡くなったのが89年4月13日ですから、それから17
年が経過しました。
 この時期に、富士川義之さんによる「富士川英郎」さんについての評伝を読んでいた
のも何かの縁であるようです。富士川英郎さんは、東大の教授を辞めてから、次々と著
書を小沢書店から出していくことになるのですが、こういう退隠後の在り方は、一つの
理想のようであります。
 Poetica 第二号「篠田一士」特集の巻頭には「座談会 篠田一士の遺したもの」が
おかれています。出席しているのは菅野昭正、池内紀野谷文昭、そして富士川義之
さんでありまして、富士川さんが司会をつとめています。
この座談会で菅野さんは、「1975年くらいかな、『おれは本は十冊しか出さない」と
言っていたことがありましたね。十冊の最後は『五山文学論』だといってましたね。」
と発言し、これに対して富士川さんが「ぼくもききましたよ、それ。」と応じていま
す。
 結局のところは、70年後半から80年代にかけてたくさんの本を出すことになったので
すが、もっと仕事をセーブしていれば、もうすこし生きられたのかもしれません。
 篠田さんが「ぼくの最初の言語の教師である」と呼ぶ、森亮さんは、篠田さんを偲ん
で「思い出すこと」という文章を寄せていますが、その最後のくだりを引用することに
します。
「篠田君が三十五歳前後のことだったと思う。『ボクは四十になったら物を書くことを
やめて、Loeb対訳叢書のラテン語古典の部と五山文学を読んで暮らしたい』と、ふと
洩らしたことがある。英文学もフランス文学も棚上げにしたような口振りだった。
しかし実際は四十歳はおろか、五十歳になっても、六十歳になっても、彼の重装備の機
関車はとどまることを知らなかった。そして、言うもくやしいが、昭和の終わった年に、
明窓浄机の夢を実現することもなく永眠に就いた。」
 先生おもいであった、旧制高校時代の教え子の死を悼む文章であります。
そういえば、数年前に篠田一士さんが、森亮さんに献呈した「現代イギリス文学」垂水
書房版を古書店から購入したことを思いだしました。