新旧 読みくらべ

 サローヤンは、どういうわけか「第3の新人」といわれた作家たちに人気があったと
いわれています。サローヤンの代表作といわれる「我が名はアラム」を三浦朱門さん
が、「人間喜劇」を小島信夫さんが訳しているということからも、それはうかがえま
す。三浦朱門さんは、旧制高知高校時代に仲間うちにサローヤンを広めたようで、
その頃に一緒であった阪田寛夫さんも好きで、そのお仲間である庄野潤三さんも愛読
者であったようです。
 これまでは「My Name is Aram」は、三浦朱門さんによる「我が名はアラム」という
邦題で定着されていたのですが、これを「僕の名はアラム」とした柴田元幸さんは、
訳を新しくすることで、これまでこの作品と縁がなかった人たちに、この小説を読ん
でもらいたいと思ったようです。
 当方が持っている三浦訳の角川文庫版奥付を見ますと、これの初版は昭和32年とあ
りますので、翻訳されてから60年ほど経過していますので、この時代においてはどう
かなと思うような訳語もでてきます。
 翻訳でなければ、「本文中、差別的な表現が用いられているところがあるが、原文
の歴史性を考慮して、原文通りとした。」と注書きがされるところであります。
翻訳とすれば、そういうわけにもいかずで、それがために入手困難となっているもの
もあるのでしょう。
 数年前に岩波文庫にはいったブーツアッティ「七人の使者」の場合は、河出版から
一作品削除された形での刊行となっていますからね。
 それで、「我が名はアラム」と「僕の名はアラム」の読みくらべであります。
当方はオリジナルは持っておりませんし、持っていたとしても読解の能力に欠けるの
で、あくまでも翻訳としての日本語を読んでの話です。
 一番短くて、しかも当方が気に入っている作品です。この作品の英語タイトルが、
今度の文庫本では掲げられていて、それには、次のようにありました。
 「One of Our Future Poes, You Might Say ]
三浦訳では、「いわば未来の詩人でしょうか」となっていました。
柴田訳では、「私たちの未来の詩人の一人、と言ってもいい」となりました。
 このタイトルとなったフレーズがでてくるくだりです。
三浦訳
「オジルビー先生が、公立学校教育長、リッケンバッカー氏の方をふりむいて恐る
恐る囁いたのを、僕は覚えている。
『この子はガローラニヤンです。いわば未来の詩人でしょうか』
リッケンバッカー氏は、ちらっと僕を見ていった。
『ふん、なるほど、この子は誰に対して腹を立てているのだね』
『社会です』
 とオジルビー先生が答えた。」
このくだりは、柴田訳では。
「オーギルヴィー先生が教育長のミスタ・リッケンバッカーの方を向いて、恐る
おそるささやいた この子はガログラニアンと申します。私たちの未来の詩人の
一人といってもいいかと。
 ミスタ・リッケンバッカーは僕をさっと一目見て、ほう、なるほど、あの子は
誰に怒っているのかね?と訊いた。
 社会にです、オーギルヴィー先生は答えた。」
 柴田訳では会話のカギ括弧が消えているほか、名前の表記がより今風な呼び方と
なっています。これがためにずいぶんと読みやすくなっているように思いますが、
どうでしょう。