皇后考 2

 原武史さんには「大正天皇」「昭和天皇」という著書がありますが、その研究過程
で、天皇だけをやっていても天皇制は理解できないということになり、取り組んだ結
果が「皇后考」となります。
 そもそも「皇后」ってなんだですね。当方のような昭和の戦後の天皇・皇后しか見
ていないものにとっては、それは「天皇の後ろに控えるだけの存在」ですが、それ
じゃ明治、大正の皇后はどうであったのかであります。
 明治天皇の時代は多妻制でありますし、皇室制度もいまだ確立していなかったので、
皇后は最初から皇后ではなかったとのことです。明治の皇后は「昭憲皇太后」となる
方ですが、昭憲皇太后には子どもがなく、大正天皇は別な方の子どもで、このあたり
は、江戸時代の大奥と同じような仕組みとなっていました。
 多妻制がとられなくなったのは、大正天皇になってからのようですが、これは皇后
となった方が男子を生んで、皇統を絶やさないための大奥のようなものは不要であっ
たからであります。
 大正天皇は病弱で早くになくなったのですが、それじゃ皇后はあっさりと隠居生活
にはいったのかというと、これが原さんの「皇后考」の白眉となるところであります。
 病弱な天皇をサポートを通じて、その役割の一部を担うことになった皇后が、自ら
の在り方で範としたのは神功皇后で、それは折口のいうところの「中つ天皇」であり
ました。
 この在り方は、昭和の御代になってもずーっと続くのでありまして、そのことが
昭和天皇と他の皇子たちとの関係に波風をたて、昭和天皇を呪縛するという具合に
原さんの論は展開していきます。
 これは、周囲の人たちが残した記録などにある記述と公式記録を読み込んで組み立
てたものであり、それがためにどうしても文章は推測のものとなってしまいます。
天皇自らが、自分の兄弟との間の関係について、記録を残すなんてことは、望むべく
もないことなのですから、これはしょうがないのです。
 大正皇后、後の皇太后節子が亡くなったのは1951年5月のことだということで、当方
は、その年の2月に生まれておりますから、何ヶ月か同じ時代を生きていたのですね。