高校駅伝といえば 2

 高校駅伝といえば思い出す文章は、昨日にすこし引用しました山田稔さんのもので
あります。この文章がなぜ好みであるかといえば、山田稔さんのものにしては珍しく
ご家族が文章に登場することと、高校駅伝が話題となっているからです。
 この文章が発表されたのは、「日本小説をよむ会」の会報だそうです。タイトルは
「運幸亭愚話」というもので、その五となっています。(発表年は不明 )
 この文章をすべて引用して、それにコメントをつけたら面白かろうと思ったので
あります。たとえば、この文章の書き出しであります。
「暮れの二十七日、京都は雪だった。」
 ウィキペディアにある全国高等学校駅伝競走大会を参考にして、注をつけてみま
しょう。
「暮れの二十七日」に大会が開かれたのは、過去に何度かありますが、このあとに、
「二、三年前から、京都で開催され」とありますから、この大会は、1970年12月27日
に開催のものとわかります。(ちなみに、この大会が開催されていたときは、当方は
帰省しておりまして、石炭をくべながら風呂をわかしているときに、このラジオ中継
を聞いた記憶があります。ウィキをみますと、この時代はTV中継はなかったよう
です。)
 先日の大会が65回であるのに、どうして「二、三年前から、京都で」とあるのかと
不思議でしたが、この大会が始まってからずっと大阪でやっていて、1966年の大会から
京都へ移ったとあります。山田稔さんは、二、三年前と記していますが、もうすこし
前からのことのようです。
「スタートの午後一時ごろラジオをつけた。実況を聞いていると、『ただいま白梅町を
通り過ぎました』とか、「加茂川を渡ります。比叡山が見えてきました』とか、刻々と
コースはわが家に接近してくる。先頭の相原高校のランナーは『ヒヨコの色、そうです、
ちょうどあのヒヨコの羽毛そっくりの黄色をしております」とアナウンサーまでが上が
り気味で、・・・・それを聞いているとそのヒヨコ色のランナーがなるでわが家にむかっ
て駆けてくるような切迫感があって、急に私は、『それっ、行くぞ!』と叫び、レイン
シューズに足を突っ込んで家をとびだした。『どこに行くの!』と上の二人の子供が
悲鳴をあげ、『エキデン」「エキデンてなに?』『何でもいい、はやく来い!』
あわてふためく二人の子を引きずって高木町の電停にかけつけると、ほら、もう来た
ぞ。」
 高木町の電停というのは、北大路通りにあった下鴨高木町の市電停留所のことです。
今の駅伝コースでは北大路通りの東行きは、堀川通りにぶつかると南にむかって曲が
り、堀川を丸太町まで下がりますので、山田さんのご自宅のご近所は通らなくなって
しまっています。
 ヒヨコ色の相原高校というのは、この年の優勝チームでありました。相原高校なんて
聞いたこともないという感じですが、この年は他の伝統校をおさえて優勝したとあり
ます。このチームの大黒柱はその後箱根駅伝でも活躍したとのことです。
ヒヨコ色のチームが「月刊陸上競技」の表紙を飾っているのがありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/v1500m/42794787.html