返却の旅 5

 対馬の宗家に伝わった文書は、1982年11月に対馬を訪れて対馬歴史民俗資料館にて
返却されることになりました。宮本常一さんによる借用書は50年8月の日付でありま
したので、32年後となります。
 この時のやりとりを網野善彦さんは、次のように記しています。
「待っていてくださった資料館研究員の津江篤郎氏に迎えられた私たちは、机の上に
風呂敷を置き、挨拶をかわしたのち、私がクドクドとここにいたった事情を説明し
はじめた。背が高く、がっしりとした体格の津江氏は、いかめしい顔で腕を組みなが
ら、無言のまま、私の説明を聞いておられた。あるいはきびしい叱責をうけるのでは
ないかと覚悟していた私の話が終わると、津江氏はやおら腕組をとき、膝を大きく
叩いて『網野さん、これは美挙です。快挙です。今まで文書を持っていって返しにこ
られたのはあなたがはじめてです』といわれたのである。
 思いもかけぬ賞賛の言葉に、心底、私はホッとした。そして文書を返却しないまま
にすることの恐ろしさをまたあらためて痛感した。」
 対馬の資料館研究員さんが、こういうのであります。最近はいざ知らずであります
が、ある時代までは地域に眠っている資料は、いったん貸したが最後、ほとんど戻って
くることはないというふうに読めるのであります。
 ひょっとして、あちこちの大学等で保存されている資料のなかには、借りたんだか
もらったんだかわからないうちに、大学のものとなってしまったものもあるのでしょう。
 大英博物館が展示する資料でありましても、それがもともと生み出された国から返却
を求める声が寄せられていますし、日本も先頃に大韓民国との間で、歴史文書の返還に
ついてが話題となったところです。
 戦争や占領によって、国宝のような文化財が国から流失するというのは、過去から現
代において珍しいことではないようですが、平時における学者さんの資料収集は、これ
と一緒でよいはずがありません。