返却の旅 4

 日本常民文化研究所が借用していた文書の返却が強く求められるようになったのは、
文書の本来の持ち主である旧家からの申し出があったであったでしょうが、あわせて
地元の歴史博物館などが資料の調査をはじめたこととも影響しているでしょう。
 水産庁のプロジェクトとして資料整理をはじめたのは、1949年でありますから戦後
復興が軌道にのりはじめたばかりで、まだ地方では古文書の収集、整理という余裕は
なかったでありましょう。
 他に先んじたことから貴重な文書がたくさんあつまったわけですが、やはりそれに
ともなって大きな責任が発生するということですね。
 網野さんは、神奈川大学に招かれて、真っ先に返却しようとおもい立ったのは、
対馬の伝わる文書でありました。この文書についての経過について、次のように
あります。
神奈川大学経済学部の一室に集められた、かって月島分室の借用した文書の中で、
ひときわ目立つ大型の袋綴縦帳十冊と封筒に入った若干の文書を見出した。・・
これはまぎれもない対馬の宗家に伝わった文書であり、借用証の綴を調べてみたとこ
ろ、宮本常一氏が1950年8月17日に借用したことがただちに判明した。」
 宮本常一さんが登場であります。宮本さんの「忘れられた日本人」の冒頭には、
対馬の調査のことが描かれているとありますが、こうした調査では資料の借用もなさ
れていたのでありますね。
 「この文書が未返却だったことを、宮本氏はご存じだったのだと思う。私が名古屋
大学から神奈川大学に異動して文書返却の仕事に携わろうとしていることを耳にされ
た宮本氏から、突然、私は名古屋の自宅に電話をいただいた。そして宮本氏は『これ
で自分も地獄からはい上がれる。よろしく頼む』とまでいって、この異動を喜んで
下さった。宮本氏が文書の未返却にどれほど心を痛めておられたかを、私はこの電話
でよく知ることができた。しかしこれは私にとって宮本氏から頂戴した電話の最初で
あり、そして最後のそれとなった。それから間もなく、宮本氏は逝去(1981年)され
たのである。」
 借用した文書の未返却は宮本氏をして「地獄」といわせているのでありますが、
宮本氏の段階で、これをすこしでも返すことができていればと思うことであります。