岩波文庫「ある老学徒の手記」の解説を田中克彦さんが書いているのは、もちろん
田中克彦さんの専門につながるからであります。(当方の読書は、ちょうど老学徒が
家族をともなって満州から蒙古調査に赴くところにさしかかっています。)
家族を伴って実施した鳥居龍蔵さんのモンゴル調査旅行は、有名であったと田中
さんは記しています。
「鳥居のモンゴル旅行を有名にしたのは、何といっても、きみ子夫人と生後70日の
幼女、幸子を伴っていたからである。私は学生時代、夫人による『土俗学上より観た
蒙古』を読んでそのことを知り、このような調査旅行のスタイルにたいへんあこがれ
たものだ。もっとも研究のためにモンゴルに旅する学者には、なぜか、妻のみならず、
鳥居のように幼い娘までつれて行く人がいる。」
このあとに言及されているのは、フィンランドの言語学者 ラムステッドの例です
が、1898年にシベリア横断してのモンゴル調査には驚いてしまいます。
田中克彦さんは、1958年、国立の一橋大学大学院で研究をする決心をして、住む
ところをさがしにいった時に、道をたずねた女性に、逆に何を勉強するのかと聞かれ
て、モンゴルの研究と答えたところ、その女性がうれしそうに、次のようにいった
そうです。
「ああモーコの研究ね。近くに鳥居きみ子さんて、モーコの研究家がいらしてね、
毎日モーコ服を着てこの辺散歩していらっしゃるわよ。紹介しましょうか。」
結局は、気後れ(?)してしまって、この時は申し出を受けることをなかったの
でありますが、この翌年に鳥居きみ子さんは亡くなられて、お会いすることはでき
なかったとのことです。
こうして、田中さんは日本のモンゴル学の草分けの方に相まみえる機会を永遠に
失ってしまうのですが、そうしたことも、この文庫本の解説を書かせることにつな
がったのでありましょう。