六枚のスケッチ 10

 本野亨一さんの「文学の経験」を読んでみますと、「はじめに」で苦戦をして
しまっています。これについては松田道雄さんが「本野君もまた文学の発表について
妥協をするところがありませんでした。」とありますが、これまで見たところで、
すこしは納得です。
 旧制中学以来の友人である松田道雄さんによる「わが友」という文章には次の
ようにありました。
「(本野さんが)文学者として世に容れられなかったとはいえ、それは彼の文学が
オリジナルであったゆえで、彼が世にすねたのではありません。
 立命館大学の教授としての責務を十分に果たし、さらに老軀をひっさげて甲南大学
の女子部の校長をひきうけました。
 その五年間、毎週火曜日の朝礼に千人の高校生と中学生に、人生について、古今の
名作について話し、時には独唱をして、静聴せしめたのは、彼のやさしさでした。
話し上手で有名な或大学の名誉教授に特別講演をたのんだとき、ティーンエージャー
たちは途中でさわぎだし、いつも静聴ができませんでした。
 私たち中学の同級生は、いま人生の終着駅に近づいています。いまほど本野君の
人としてのやさしさを必要とする季節はありません。」
 この文章が書かれたのは96年のことだそうです。本野さんは82歳で亡くなって
いますので、亡くなってから5年くらいたっていたときのことです。