小沢信男著作 243

 文学運動というからには、しっかりとした理念がなくてはいけないのですね。政治の
優位性ということが前提でありましたら、その政治団体の運動方針をなぞるということ
でいいのかもしれませんが、政治団体と縁切りをしたことによって、多様な会員をまと
めるための運動理論の構築が必要であったのです。
 田所泉さんは、花田清輝さんの「芸術アクティブ」「根拠地と遊撃」とか、針生一郎
さんの「批評精神による結合」、野間宏さんの「芸術協同組合」、武井昭夫さんの「思想
運動」、久保覚さんなどによる「民衆文化運動」などの主張を紹介していますが、いずれ
も「運動理論」というか、「芸術運動の結合論理」を探求するためのキーワードである
わけです。
 小沢さんの解散提起では、「個々のジャンルにたてこもらない、ジャンルを越えて、
芸術総合化! 運動には折々の旗があって、ほどなく消えるのや、十年は続くのや、
また柱のようなものもある。芸術総合化は柱の一つのような旗でした。」といっていま
す。小沢さんに一番似合う運動理念は「芸術総合化」であるようです。
 しかし運動理論の構築作業は、小沢さんの仕事ではないですね。新日本文学会には、
理論の得意な人がたくさんいましたので、もちはもちやにまかせて、自らは運動の実践
に力を費やしたように思えます。
 小沢さんの解散提起からです。
「労働者の書き手がこんなに全国的に輩出したのは、本邦開闢以来でしょう。その時代の
うねりを、諸先輩はよくぞリードしてこられた。そのいう新日本文学会であったことを、
何度でも言いますが、肝に銘じて誇りとすべきではないでしょうか。
 六〇年、七〇年代は日本文学学校がいちばん盛んな時期で、その相乗作用もありました
ね。政治運動が挫折すると、気骨のある若者たちがこっちへなだれこんできてくれる。
それはもう戦後の全学連このかたの伝統でしょう。挫折と文学は、やっぱり深いご縁が
あるのだ。ですからね、学生運動が上がったりの八〇年代からこっちは、それこそ落ち目
ひとすじ、ですね。」
 これに続いて「八〇年代以降の新日本文学会」を、次のように総括します。
「創っていないからですよ。批評がないからですよ。創りも批評もしないで、それは運動
がない証拠ですよ。何やってるんだ、なんの批評もなしでだらだらならべてさ。」
 八〇年代以降も機関誌である「新日本文学」は刊行され、それには作品や批評が掲載
されていたのですが、そうした現状に対する忌憚ない意見であります。
「運動がない」、「批評がない」というのは、「同人誌」以下であるということですね。