小沢信男著作 151

 本日も、小沢信男さんの「本所 あの町 この道」という文章から話題をいただき
です。
「江戸は東京と改まる。明治十一年(1878)十五区制が発足する。現在の山手線の内側
隅田川両岸だけの東京市である。・・隅田川東岸は本所・深川の二区だけ。それも
横十間川までで、その東はひろびろと南葛飾郡だった。
 明治の首都建設建設計画において、隅田川の東は工業地帯とされ、事実そのように
なった。
 それはそうだろう。木場をはじめ、横網の御竹蔵、猿江の御材木蔵など元来が物資
集散の地である。そこへ大名旗本御家人足軽までが一斉に失業し、空家や空地がいくら
でもある。そこらの長屋には鋳物師、瓦師、細工師、刷毛師などの職人や、傘張り浪人
などの労働力がいくらでもいた。土地と人手がタダ同然で、しかも水運至便、道路整然。
工業団地に誂えむきの状態のところへ、文明開化がきたのである。」
 本所界隈では、明治初年にいろいろな製造業が起こってきたのですが、明治の中期に
なりますと、現在にも続く会社が設立されたとあります。
「(明治)二十三年、菊川町に宮田栄助が銃器・諸機械製造工場設立。のちの宮田自転
車である。二十四年、小泉町に石鹸マッチ取次の小林富次郎商店開業。のちのライオン
石鹸、ライオン歯磨である。二十六年、柳島町(現・太平四丁目)に服部金太郎が時計
製造の精工舎を設立。」
 本所の町々を散歩すると、いまでも個人のフルネームを冠した会社名の看板が見られる
のだそうです。小沢さんは、次のように書いています。
「個人商店が大企業にのしあがるのは、近代日本資本主義勃興期のロマンであって、もう
ありえないかもしれないが、全くないとも言いきれない。なによりも中小なりに一国一城
の主である。この文明開化をわれらの手で造りだし広めてきた、という自信と誇りが根を
張っているのだろう。だからこそ内実は山ほどの苦労がなくはないにせよ。ご当地のみな
さまは、わが名を看板大にかかげつつ地平線までひしめいてござるのだ。」