小沢信男さんの「野呂重雄『ベトナム最後の砲弾』を読む」を話題にしています。
この文章の表題が「タマシイより愛をこめて」というのは、このようにして見てきます
と納得であります。
「タマシイ」と表記しているのは、もちろん野呂重雄さんであります。たましいを
「タマシイ」として「魂」と表記しないには、当然ながら意味がありでしょう。
「魂」という言葉から連想されるのは、「大和魂」とか「忠魂碑」ということであって、
これはインターナショナルな感じから遠くなってしまいますからね。
戦争で亡くなった人を神として祀り、鎮魂と平和を祈るというのもありますが、こういう
場では、「魂」は祀られますが、「タマシイ」は排除されそうです。
「戦争で亡くなった人」を軍神としてあがめ、そうした神に、国を護ってもらうという
考えもありますが、野呂さんにいわせると「タマシイ」たちに守ってもらうということ
ではないようです。
小沢さんの読みによると、それは「彼らの一致協力の目的はなにか、地上の人間の
愚行から、その人間を救うことです。つくづく生きている人間はアホだね。」となります。
「タマシイたちの行為は、いうなら死者から生者へのはなむけでしょう。連帯の挨拶とも
いえましょう。そのことを生者たちは知らない。知るすべもない。」
いつの時代にあっても、生者は過去から学ぶことがないのでありましょうか。
「死者からのはなむけ、連帯の挨拶」とは、過去から学ぶことであり、先人の知恵に学ぶ
にことにほかありません。
小沢さんの文章の最後は、次のようになります。
「イラン・イラクの野にも腰の重いタマシイたちがウロコ雲となって駈け昇る日を待って
いることでしょう。レバノン・ニカラグア・アフガニスタンの野にも、死者の足ぶみが
ふえればふえるほど、世界がこの作品に限りなくちかづいているのかもしれないのです。
さらに加えて、スリーマイルズやチェルノブイリの野もあります。殷鑑遠からず。
原発とその廃棄物を山ほどかかえて二十一世紀へむかう地球は、もう生者だけの身勝手で
運転しきれるものでしょうか。
死者のタマシイたちとの連帯が、リアルな課題となってゆくのではないでしょうか。
この作品は掌篇ながら、現代日本文学がもちえた、すぐれて予見的な作品のひとつで
あると確信します。」
小沢さんの評が書かれたのはいつのことでしょう。すぐれて予見的というのは、この
評にもいえることでしょう。