編集工房ノア「海鳴り」5

 編集工房ノア「海鳴り」22号が手もとに届いたのを機に、川崎彰彦さんが、その昔
に記した(?)であろう「ノアはぼくのホームグランドだから」という言葉にあたって
います。
 すぐに見つかるであろうとたかをくっていましたが、これがなかなかでてきません。
そのフレーズを眼にしたときは、川崎さんはすでに一度目の倒れたあとであったように
思うのですが(なんといっても、一度目に倒れたのは48歳という若さでありました
から)、そのリハビリ過程において書きためた文章をまとめて一冊にして「編集工房
ノア」から、出版となって、そのあとがきに川崎さんが記していたというのが、当方の
思い込みです。
 それをフレーズを見た時に、いくら付き合いが深くとも「ノア」は商業出版であるの
で、「売れない作家の見本」(元は長谷川四郎さんが自分のことをいったもの)のよう
な川崎さんの本をコンスタントにだし続けることを、川崎さんに期待されるのは、
しんどいことだろうなと思ったものです。
 編集工房ノアから最後にでた詩集「合図」のあとには、川崎さんの著作目録が
のっていまして、それをみると、翻訳を除いては海坊主社からでたものも含めて
ほとんどを持っているのですが、ノアからでたもののあとがきをいくつかみているの
ですが、ここにはありませんでした。
 81年に倒れて、次いで89年に倒れるのですが、その時期にノアからでたものとする
と、
 月並句集     80年 (合図には81年とありますが、奥付けは80年11月1日)
 夜がらすの記   84年 
 二束三文詩集   86年
 冬晴れ      89年
 以上の四冊になりますが、このあとがきにある「編集工房ノア」への感謝のことば
は、次のようになります。
 まずは「夜がらすの記」
「 こんども一冊にまとめることを申し出てくれた編集工房ノアの涸沢純平氏に、心
からお礼をいいたい。あなたがたのおかげでこの作品集はできました、と。」
 次は「二束三文詩集」
「 七年前、VAN書房から『竹薮詩集』というのを出してもらった。生涯に一冊の詩集
が持てて、わたしはうれしかった。もう詩を書かないつもりだったが、注文がきたりし
て、また書くようになった。詩というより『詩のごときもの』であるが・・・。
そうしてなんとなく溜った『竹薮以後』の作品から、また一冊を編む気になって、こん
どは編集工房ノアにお願いした。」
 「冬晴れ」
「私はこの集に『蜷の月日』という題をつけようかと考えたが、なんだか閑居老人趣味
のような気もするので、収録作品のうち、語感のすきな『冬晴れ』を選ぶことにした。
宝石のようにつややかな冬の青空。あの光沢に迫るような文章が、いつの日か私にも
書けるだろうか。
 今回もお世話になった粟津謙太郎画伯、涸沢純平・編集工房ノア社主らの盟友ととも
に、息ながく歩みつづけたい。」 
 これまでのところは、意外とあっさりとしたあとがきになっていて、二回目に倒れた
以降のように、また本がだせて本当にうれしいというような感じがありません。
 二回目に倒れた後は、本当にリハビリが大変で、92年に刊行の「合図」のあとがきに
は、次のような感謝の言葉があるのでした。
「 おわりに、涸沢純平氏の編集、粟津謙太郎画伯の装丁で、再び編集工房ノアから本
が出してもらえるなど、ぼくには夢のようなできごとである。うれしい。もうしばらく
蠢いてみようかな、とぼくのなかの一寸の虫が呟いている。」