女の夢 男の夢 2

 田邊園子さんの「女の夢 男の夢」には、編集者時代にであった個性豊かな
人々が登場します。文学作品との出会いではなく、生身の人間との付き合いで
ありますからして、楽しい事ばかりではありません。
 大学をでて河出書房の編集者となった田邊さんが配属されたのは伝説の編集長で
ある「坂本一亀」が仕切っていた「文藝」でありました。
 この「女の夢 男の夢」によせた埴谷雄高の文章では、坂本一亀について次の
ように記しています。
「私達が直接に絶えず接する編集者のなかで最も恩恵をうけた人物をあげるとなると、
これまた、勿論、戦後文学の擁護者として伝説的になっている坂本一亀をあげなけ
ればならない。戦後文学と同じ理念をもった坂本一亀は、その仕事のはじまりから、
さながら第一次戦後派の代理人のごとく活動したが、しかし、その労苦はわずかに
しか報いられず、その努力が結実したのは、戦後派の後継者の時期に到ってからで
・・・・」
 「変人 埴谷雄高の肖像」には、坂本一亀さんの息子である作曲家 坂本龍一さん
がコメントを寄せています。
「父が編集者で埴谷さんと親しかったので、小さな頃から『はにやさん』という名前は
きいていました。埴谷さんは小さな頃の僕をみたらしいけど、僕はあった記憶がない。
父の職業上、家には本が山ほどあって、そのなかに埴谷雄高もあった。漢字が読める
くらいになると、耳できいた『はにや』と漢字の『埴谷』が結びつきました。
題名が難しいけどなんてよむんだろう?とか、実際に読む前から印象的でだった。」
( 以前も記した事がありますが、「埴谷」さんは、本名は「般若豊」さんであり
ますので、もっと不思議な名前です。」 
 
 ここで、坂本一亀の部下であった田邊さんが記すところの坂本一亀さんの肖像で
あります。
「 1950年に中絶したままになっていた『青年の環』に、再び立ち上がる
きっかけを作ったのは、当時の担当へん取者であった坂本一亀が、十二年後に雑誌
『文藝』の編集長に就任したことによる。・・
 野間宏と坂本一亀は不思議な共通性であった。強固な使命感、異常な執念、呆れ
返るような幼児性、困難を嗜好する性癖、はかる物差しが見つからぬ非合理性などで
あって、それらの要素は互いにからまりあい、一種異様な熱気をかもしだしていた。
 私が『青年の環』の担当になったとき、坂本一亀はすでに会社の役員になって
いたが、彼は出版経営に携わるより、作家の原稿やゲラ刷りを読むのが無上の喜びで
あるようだった。彼が病気で会社を休むと、私は彼の自宅までゲラ刷りを運ばなければ
ならなかった。かれは作者の加筆が赤色でたくさんはいっていればいるほど、満足
気な顔をした。
 奥で作曲家を目指す一人っ子の龍一少年がピアノを弾いていると、『リュウイチ
カマシイ、ヤメロ!」と怒声を浴びせた。
 龍一少年は決して父親に逆らうことなく、だまってピアノをおくのだった。」

 坂本龍一は、このとき中学生くらいでありましょうか。「決して父親に逆らう事
がない」という印象であったのですね。