埴谷雄高の肖像 3

 「変人 埴谷雄高の肖像」には、編集者へのインタビューが2本あります。
一人は未来社の松本昌次さんへのもので、もう一人は中央公論社の宮田毬栄さんへの
ものです。
 現在、影書房をやっておられる松本昌次さんは、創業者である西谷能雄さんを助けて
今にも残っている未来社の基礎を築かれた方であります。
拙ブログで富士正晴さんについて取り上げた時に、言及したことがありました。
 松本さんのインタビューから引きます。
「 僕は「アカ」ということでクビになってしまいました。そこで出版をやりたいと
思ったのですが、幸いなことに、翌年、未来社に入社できました。編集者として
花田清輝さんや野間宏さん、埴谷さんのものなど出版したいと考えておりました。
 その頃、、どこの出版社も埴谷さんの本を出そうとしませんでした。埴谷さんは
出版社つぶしという点では有名な上に、結核、心臓病でいまにも死にそうだったから
です。それで『どうしてもやりたい。この人は戦後の作家で一番すごい人だ』と
西谷能雄社長に進言してやらせてもらいました。一部には有名でしたがほとんど
知られていないし、他の出版社の人は誰も来ないので、当時は僕が独占できたんですよ。
埴谷さんは『真善美社、月曜書房、近代生活社とどれもこれもつぶしてきた私ですか
ら、お宅も潰すかもしれませんよ』と冗談をいいながらも、評論集の刊行を喜んで
くれました。」
 真善美社というのは、花田清輝さんの「復興期の精神」をだしたところでは
なかったろうか、月曜書房は林達夫さんの「共産主義的人間」がそうであったはず、
近代生活社には、なにがあったのでしょう。
未来社からでた評論集というのは、「○○と○○」というタイトルでシリーズとなった
ものですが、一時期はずいぶんと手にされていて、同じシリーズででているなかで、
このようなタイトルとなっていないものに「幻視のなかの政治」というのがありま
した。
「 小さな出版社は大変なんです。僕は自分がいいと思う人の本だけに関わろうと
してきましたから、経済的には大変でしたよ。埴谷さんの最初の評論集は1300部
刷って返品が千冊、つまり・・読者が三百人しかいない。こんな状況だから、僕は
編集者というよりも友達に金を借りてまわるのが、仕事みたいなもので、いつ会社が
つぶれてもおかしくないところで仕事をしてました。・・・
 『はじめに本を出すのは小さな出版社がいい。出版の意図が明確になるから。
 しかしそのあとは大きな出版社がいい。お金が入るから』と平野謙さんは率直に
語っています。」
 埴谷さんは、律儀にも評論は、すべて未来社からだすという、当初の約束を
守り続けたとのことです。こうした欲のなさも、変人といわれるにふさわしいか。