覆面とペンネーム

 第二次世界大戦後には、雨後のたけのこのように雑誌が発刊されて、それらは
三号くらいで尻すぼみとなることにより、三合飲むとつぶれるということから、
粗悪な酒「カストリ」にちなんでカストリ雑誌とよばれていました。
戦後雑誌については、熱心な研究家の方が収集していて、そのなかにはカストリ
雑誌というものもあったのでしょうが、次のような証言を裏付けることはできる
でしょうか。
 証言は、平凡社ライブラリー「詩人たち ユリイカ抄」のなかにあります。
「 『二十歳のエチュード』の売れ行きが記録的だったにも拘らず、その印税の
支払いはスムースではなかった。ぼくは印税を断るために、しばしば彼らと対談し
なければならなかったし、その負い目で向陵時報という一高交友会の機関誌の印刷を
あっせんしたり、最初に一高の寮であった中村 詩人中村稔の書いた探偵小説を
カストリ雑誌に売り込んでやったり、それらのめんどうを心よく引き受けなければ
ならなかった。
 中村稔の探偵小説 ぼくはもうその第も、彼がこの場合だけ使用したペンネーム
も、記憶にないが、それが小栗虫太郎の影響をうけていたことと、たいへんエロっ
ぽいものであったことは忘れない。
 結婚したばかりのぼくの女房は、その原稿を読んで、『中村さんは結婚もして
いないのに、どうしてこんなことまで知ってるんでしょう』と顔を赤らめた。
 しかし、その点にこそカストリ雑誌の編集長はほれこんだのであろう。いくばくかの
原稿料を、かれはポケットに納めて、心もち背を丸めながら、夕暮れの神保町に
消えていった。」( 伊達得夫 「ふりだしの日々」 )

 中村稔さんは、詩人で弁護士で、最近は「私の昭和史」という著作を発表して
います。続刊が上下ででて、あわせて三巻となっているのですが、一冊目にこの
時代のことはあったはずですが、もちろんカストリ雑誌に探偵小説を書いて
原稿料を受けていたとはなかったように思います。
 こうして活字となった小説は、うまくいけば読むことができそうですが、
関係者がほとんどいなくなってしまったからには、中村稔さんが、これを自作で
あると認めることがなければ、ペンネームと中村さんは、永遠に結びつくことは
なしで終わってしまいそうです。それにしても、この作品を掲載した雑誌の
編集者は、この作者が将来jに詩人として、文芸家協会の大物として有名になるとは
思ってもみなかったことでしょう。