青土社 清水康雄

詩の両岸をそぞろ歩きする―江戸と、フランスから

詩の両岸をそぞろ歩きする―江戸と、フランスから

 飯島耕一さんの「詩の両岸をそぞろ歩きする」には、「忘れ得ぬ編集者・出版人」と
いう一章があります。ここで取り上げられているのは、順に「伊達得夫」「清水康雄」
「安原顕」の三人です。安原顕は、すこし意外な感がすますが、書肆ユリイカの伊達
得夫さん、青土社 清水康雄さんについては納得であります。

「 清水康雄と初めてあったのがいつだったかよく覚えていないが(もとは河出書房に
いた)、彼のことをはっきりと覚えているのは確か1969年の春先だったと思う、
・・十数人の詩人や評論家が清水さんから呼ばれて、伊達得夫創刊の詩誌『ユリイカ
を自分の手で復刊継続したいのだがどうだろうと相談されたことである。その場には
吉岡実や那珂太郎、中村稔らがいたが、みな四十代で、その他の大岡信らはまだ三十代
だった。・・
 こうして同年の七月に『ユリイカ』復刊一号が、神田錦町の清水康雄の創設した
青土社から刊行された。・・
 七二年の初めから、わたしは重いウツ病にかかり門を閉め切って、部屋にこもっていた。
友人の何人かが来てくれたが誰にも会いたくなかった。その時、清水さんは有無をいわ
せず、『ともかく今日は会います』と家に入り込んで来て、わたしの前に坐り、『話を
しましょう、どうあっても』と、一時間ほども自分が神経を病んで病院にいれられた
体験を語り、最後に、「私たちは何でもします。身内同様に思ってください』という
言葉をかけてくれた。」

 伊達得夫さんの「ユリイカ抄」にも「清水康雄のこと」という文章があります。
「 ある日、見知らぬ青年がぼくの家をたずねてきた。詩集を自費出版したいから
世話してくれということだった。たずさえて来た原稿をぼくはその場で読んだ。
感服しなかった。しかし、技術的なことでなくて、この作者の精神構造にはどこか
大きく欠けたところがあると感じた。かれはひどく自信ありげに、この本が出版
されることによって、現代詩は一変するだろうと言った。ぼくはやむを得ず力弱く
あいづちを打った。そして出版を引き受けた。清水康雄詩集『詩』である。B5版、
六十頁。ただし印刷されたのは三十頁に満たなかった。」

 この伊達さんの文章を読みますと、とっても会社経営をすることなど困難な人物の
ように見えますが、このあとの入院生活を経て、見事に復活をするのでありました。
飯島さんの文章に戻りましょう。
「 この国で詩人であることは楽なことではない。新聞雑誌の多くも、小説集は取り
あげても、詩集の批評なでは考えようともしない。詩集や詩誌の広告が出ることも
めったにあることではない。とりわけわたしの著書は、どんな出版社にも利益をもた
らすことはない、それでいて、わたしは幸運なことに、十人を超えるすぐれて編集者
や出版人との出会いに恵まれた。なかでも清水さんにはひとかたならぬ配慮を頂いた。 
 古いといえば古いタイプの、しかし手厚い編集者であり、出版人だった。」
 
 70年代における青土社の活動は、第二次「ユリイカ」をベースにしてめざましい
ものがありました。この会社とその社主に、小生は感謝しなくてはいけないのであり
ました。