2012-06-01から1ヶ月間の記事一覧
どうやら当方にとっての平凡社というのは、林達夫さんを源流とするもののようで あります。蘆原英了さんは、林さんの中央公論社での部下ということになるのでしょう か。その後、平凡社の大百科事典事典のブレーンとなって、自らもいくつかの項目を 執筆して…
日本舞踊で力強さを表現するものはあまりないのでしょう。それが蘆原さんをして、 日本舞踊は内心的といわせるのでしょうが、仕事唄などに踊りをつけたものには、 けっこうナンバンがあるようにも思えます。たとえば海の男達が網を引くのを踊りに するとナン…
ナンバンの本質についての蘆原英了さんの考証であります。 「力のはいった動きがナンバンの姿勢をとると考えるべきであった。 私が真先にナンバンを発見したやり投げや砲丸投げについて考えてみると、これらは いずれもその物体を投げた最後のポーズがナンバ…
蘆原英了さんの「舞踏と身体」の目次の章立ては、次のようになっています。 第一章 思い出の舞踊家たち 第二章 舞踊の周辺 第三章 スペイン舞踊の世界 第四章 日本舞踊の身体 これに収録されている文章で、書かれた時期の古いのは「思想」1938年2月号に 掲載…
蘆原英了さんはシャンソンで有名でありますが、フランスから戻って最初についた のが舞踊に関する雑誌の編集長であったとは知りませんでした。 年譜をみましても、「蘆原はパリのバレエ教習所にも通い、バレエ技法の基礎などを 身をもって体得した。」とある…
蘆原英了さんの「私の半自叙伝」は、いまでも入手可能な蘆原本でありますが、今は タイトルを変えて「僕の二人のおじさん、藤田嗣治と小山内薫」となっています。 この本の巻末にある年譜をみておりまして、蘆原英了さんが中央公論社に勤務してい たことを知…
蘆原英了さんの「シャンソンの手帖」を見ていましたら、歌手のダミアさんのところ で「私のいた1933年のセゾンには」とありました。蘆原さんが1933年にフランスへと いっていたことは、当方の記憶に残っておりませんでした。蘆原さんの年譜は「私の 半自叙伝…
いまから50年ほど前は、いまよりもヨーロッパの流行歌を聴くことができたように思 います。当方がユーロという言葉を最初に意識したのは、「ユーロビジョン」というの を冠にしたイベントがあったからです。それは「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」 の…
「平凡社つながり」といいながら、どこがでありますが、蘆原英了さんの本をだして いる新宿書房がであります。 ということを記してから昨日の続きで、「鈴蘭まつり」であります。当方の住むまち のまわりには、鈴蘭の群生地がありまして、そこが観光地となっ…
昨日に続いて蘆原英了さんの著書にあります「恋の花」の話です。 「フランスでは若者たちは、リラの森にゆくことが大好きだ。女の子を連れて、リラの 咲き乱れた森へ入ってゆけば、もうしめたものだという。リラの花のむせかえるような 匂いをかぐと、どんな…
そういえば7月というと日本では「巴里祭」というイベントがあるのでした。フランス の祝日にあわせたものですが、なんとなくシャンソン祭のような印象を持ってしまいま す。この時期でありましたら(ちょっと遅いかもしれませんが)、「花のパリ」であり ま…
蘆原英了さんといえば、サーカスよりもシャンソンでありますね。新宿書房から刊行 された「シャンソン手帖」の帯には、 「生涯シャンソンを愛した続けた<シャンソン博士>(三島由紀夫・評) アシハラ・エイリョウの巴里の小唄エッセー集」とあります。 先…
新宿書房から刊行された蘆原英了コレクションを手にしていたら、その装丁の見事 なことに、これは書影を掲載しなくてはと思いました。 装丁を担当された田村義也さんは、この蘆原氏の著作について、どこかで言及して いるのではないかと思って、「のの字もの…
蘆原さんの著作は「サーカス研究」となっていますが、これは「序論」のような ものでありまして、これから書いていきますよと宣言しただけで終わってしまって います。本格的な著作を書くことなしに終わったのも蘆原さんらしいことであります。 この「サーカ…
昨日に紹介した小林祥一郎得さんの文章には、「蘆原英了さんは遅筆」とありました が、資料を収集するに忙しく、まとまった研究を発表するにいたらなかったものでしょ う。同じく遅筆で、文章を発表しなかったことで伝説的な存在となっている林達夫さん と比…
昨日に紹介した新宿書房の「田村義也」さんの本は、これまでも何回か言及して いると思います。新宿書房が事務局になって「田村義也追悼集」も刊行をしています。 これなどは、田村義也ファンにはたまらないものでありまして、もしも遅れてきた 田村ファンで…
編集者の方が書いたものは好きでありますが、小林祥一郎さんのものを購入したのは、 東京へと遊びにいっていて現物を手にすることができたことと、版元が新宿書房であった ことが決め手でした。この本について「手柄話は自分事」というタイトルの匿名コラム…
平凡社つながりとしたのは、かって平凡社で一緒に仕事をしていた小林祥一郎さん、 村山恒夫さん、石塚純一さんのことを話題にするためでありました。 平凡社を退職されたこの三人が共同作業をしたのが、今回の小林祥一郎さんの「死ぬ まで編集者気分」となり…
平凡社の「世界大百科事典」というのは、一時期は居間におかれた書棚に飾られる ために販売されたような感じを受けます。箱入りの文学全集と百科事典は、居間に 欠かせないインテリアであったのかもしれません。アメリカーナなどもずいぶんと 売られたようで…
小林祥一郎さんの著書「死ぬまで編集者気分」を話題としていますが、この本の帯に は、次のようにあります。 「『新日本文学』『太陽』の編集長、そして新『世界百科事典』を立ち上げ、さらに電子 百科『エンカルタ』編集長を歴任。五十年にわたって戦後の編…
「百科事典の編集は、たいへんな費用と年月がかかるのに、完結販売するまでは費用の 一部しか回収することができない。当然、予約販売もするが、その部数はかぎられてい る。平凡社はしだいに金ぐりに苦しむようになり、やがて原稿料や給与を分割払いに しな…
二足のわらじといっても、平凡社 小林祥一郎さんのように月刊「太陽」と 「新日本文学」の編集長を兼ねるというのは、なかなかあるものではありません。 大学の先生などが教授と学会の事務局長を兼ねるというのとは、ちょっとちがいます でしょう。この二足…
小林祥一郎さんは、この採用試験を通って、晴れて平凡社に入社し、百科事典の 編集部に配属されます。大学を卒業してすぐに「新日本文学会事務局」に入ったの ですが、これはとっても普通の就職先とはいえないことでありますが、これをやめた のは、当時の編…
梁山泊のようなかっての平凡社には、近藤憲二さんのような押さえのきく人がいた のでありますね。 小林さんが文中にある近藤さんです。 「近藤さんはアナキスト大杉栄の子分格の人で、のちに平凡社から『一無政府主義者 の回想』(1965)という本を出してい…
平凡社のつわものたちとは、大沢さんのほうが近しかったのかもしれません。 大沢さんの著書には、次のようにあります。 「昭和三十年代の初め頃までは、戦前の名残で、左右両翼の錚々たるひとたちが 平凡社で働いていた。共産党系では松本正雄、岡本潤、荒川…
当方は手にしたことがありませんが「平凡社60年史」という社史があります。1974年 に刊行されていますが、これが「筑摩書房の三十年」のようなものでありましたら、 もっと話題になっているでしょうか。「筑摩書房の三十年」は、巻末に社員名簿があり まして…
嵐山光三郎さんは、平凡社は無頼の徒の巣窟と書いていますが、昨日に引用した ところを見ていますと、すぐに名前の浮かんでくる人がいるのでした。小説の中に 具体的なことが書かれているにもかかわらず、思い当たらなかったりして、どうでも いいことであり…
出版社というのは、製造業などどくらべると会社規模は小さく、有名な出版社ほど オーナー家が関わっているのではないでしょうか。講談社、中央公論社、岩波書店、 平凡社などは、みな創業者の強烈な個性によって会社の骨格を作ってきました。 これらの会社の…
最近のことでしたか「岩波書店」が社員募集をするときに、応募は紹介状のある者と 条件をつけてしまいましたが、その昔の出版社であれば、問題にもならなかったでしょ う。 平凡社などは、昔はさむらいが多くそろっていることで有名でありましたが、その 方…
川崎彰彦さんにとって函館が「第二の故郷」であるとするならば、息子さんである 川崎与志さんにとっての函館は文字通りの故郷であります。 「中学卒業とともに父を残し帰函」とあるとおり、母と息子にとって帰るところは、 函館であったわけです。これはこの…