落選通知あり

 本日は推しグループのコンサートチケットの抽選結果連絡日でありました。

それなりに期待して待っておりましたが、結果は落選でありました。ファンクラブ

の先行だから、確率は半々かなと思っておりましたが、あえなく敗北、次回からの

申し込みにかけることになりますが、この先はますます狭き門となることから、こ

れは非常に厳しいことです。6月の東京ドームは夢に終わるのかな。

 一昨年から昨年前半にかけてファンクラブに入っていないときには、十数連敗を

経験したのでありますね。それでファンクラブ加入して、すこしでもチケット入手

の確率をあげようと思いましたが、世の中そんなに甘くないか。

 本日は当方ひいきの力士も敗れまして、連敗して星勘定を五分としてしまい、

今場所は大勝ちして上位にいくぞと応援しているひいきたちからため息がもれまし

た。

 すこし気分転換が必要なようであります。

 図書館から借りている軽い本でも手にしてみることにしましょうかなです。

 この本のことは、行きつけの本屋で手にすることができて、その時に話題にして

おりましたです。

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 大倉徹也さんは1932年大阪生まれで、当方にとっては放送作家である前に、

VIKING」同人でありまして、東京ブランチの有力メンバーで、その当時の記録

を残しているのでした。

 この「放送作家の時間」にも、「VIKING」時代のことが書かれていましたら、

すぐに買ったのでしょうが、結局は見送りし、それから2年半もたって、やっと

借りることになりです。

 当方が放送作家 大倉徹也さんの名前を記憶しているのは、小沢昭一さんの

ラジオ番組の構成者としてと思っておりましたが、この本をみますと、大倉さん

の仕事と出会っているのは、NHK夢であいましょう」でありました。

 大倉さんは、学生結婚をした奥様と暮らしていた23歳の時に、一歳年下の

永六輔さんに声を掛けられて番組構成のアシスタントを始めたのだそうです。

「ともあれ私は自分より『一歳年少の天才』に師事してコントの作り方を学び、

放送作家という呼び名ができる以前にコント作者として放送業界にデビューで

きることになる。つまり私が放送作家になれたのは永さんと出会えたおかげな

のだ。」

 永さんに出会ったのは23歳の時ですから、1955年のことでありまして、

この時にすでに大倉さんは「VIKING」の維持会員となっていて、1955年1月

には東京ブランチが立ち上がるのですが、こちらの本には、そのことはまったく

言及されません。ちょっと残念なことです。

 

 

すこしは読まなくては

 ずいぶんと前から借り続けている図書館本、このまま読むことができないので

あれば、返却しなくてはでありますが、すこしでも読んでみなくてはということ

で、つまみ読みというかナナメ読みを敢行することにです。

 たぶん当方が手にする小説以外の著作では一番若い人によるものです。1990年

生まれだそうですから、いまいくつなのさです。(たぶん、注目の若手というこ

とになるのでしょう。)

 その本のはじめにのところには、次のようにあります。

「高校時代の私は、鶴見の本を読みづらいと感じた。言葉や概念が難解だったわけ

ではない。『期待と回想』は語り下ろしなので、それぞれの文章は問題なく把握

できる。しかし、結局何が言いたいのかという核心はまともに理解できなかった。

( 中略 )

 実は、鶴見を理解する上で、この『わかりにくさ』に素朴に向き合うことこそ

が大切だ。

 私が『鶴見俊輔の言葉と倫理』で試みるのは、この『わかりにくさ』を手放さ

ずに、彼の言葉を妥当かつ適切に読み解くことだ。愛読者の多さにもかかわらず、

鶴見はまともに読み解かれてこなかったように思われる。彼の言葉に関する妥当

な解釈を積み上げることで、その哲学の核心をつかみたい。」

 このような若い人が鶴見俊輔さんは、わかりにくいと言ってくれるとほっと

することであります。鶴見さんのものを読み解くことによって理解を深めると

いうのですから、のぞいてみるしかないですね。

 また、次のようにも書いているのでありますね。

「『鶴見俊輔』の名の下に出版されている文章のほとんどが、彼の評伝か、敗

戦後の日本という知的条件の下で苦闘した人物の一人として見る研究であり、

そうでなければ、彼の知人や友人によって書かれた非常に好意的な文章だった

り、印象や思い入れが先走った文章だったりする。それに対し、私は彼に一度

も会ったことがないし、会うことにも特に関心がなかった。」

 こういうふうにあるのを見ますと、鶴見さんへの新しいアプローチがあるの

ではないかと期待が膨らむのでありますね。

 ということで、本日はこの本に収録の「小伝」を読んでみましたです。

一時間で読めるか

 本日に図書館から借りた本のあとがきを読んでいましたら、そこに「一時

間ぐらいでナナメ読みしてもらえるとスピード感もあって楽しんでもらえるん

しゃないかな。じっくり読まれると照れちゃうけど。」とありました。

 この本は、編集者を相手に語ったことをまとめてできたとありますので、そ

のせいもあって、スピード感を楽しんでとあるのでしょう。 

 この一時間くらいでナナメ読みというのを見ましたら、その昔に新潮社から

一時間文庫というのがでていたことを思い出しました。どこかにこの一時間文

庫があったはずと思ったら、珍しやすぐに取り出すことができました。

新潮社 一時間文庫 盲目の詩人エロシェンコ 高杉一郎

 新書版よりも一回り大きいサイズで、二段組 240ページほどですから、

一時間で読むのはとうてい無理なものです。ウクライナ生まれの詩人について

の伝記ですが、この内容には入らずで、1956年くらいには、これくらい

のボリュームを、一時間文庫として売り出しても違和感がなかったのであり

ましょうね。定価200円、地方定価210円というのも時代です。

 これから65年が経過して刊行された「一時間でナナメ読み」を、著者が

すすめる本は、次のものでありました。

 英語が堪能なDJである小林克也さんの音楽エッセイであります。現在もTVで

番組を持っているのですが、理屈っぽい音楽評論家という人ではなく、音楽を

紹介する人ということになるのでしょうか。

 前段は、どのようにして音楽の世界に入っていったかと話になり、後段では

番組で出会った外国からのミュージシャンのことなどが紹介されています。

 当方などは、小林克也さんの存在は、比較的古くから知っていたのですが、

あれをやっていたのが小林さんであったかと思ったのは、若い友人たちが

はまっていた「スネークマンショー」によってですので、ほとんど遅れてい

ることです。

 この本ではラジオ番組を始めた頃に感じた違和感のことが記されているの

ですが、このことが、逆に小林さんを当方から遠ざけていたのかなと思った

りです。

「元々、僕はラジオの仕事がすごくやりたかったんです。ところが、いざ

ラジオ番組をやってみたところ、現実とのギャップにガックリしてしまった

んです。

 自分の興味があることと、番組内で紹介する内容というのがまるで違うん

ですよ。」

 番組で紹介が求められているのは蘊蓄につながるような話であって、自分

が伝えたいのは、この音楽のどこがいいかということであったようです。

当方などは、どちらかというと頭でっかちな音楽ファンでありましたので、

蘊蓄を求めていたようです。

 そうなると、音楽評論家というような人がDJをしている番組をきくこと

になるのですよね。

 「洋楽の知識をふりかざすやつがいるじゃないですか。あれは僕が一番軽

蔑するタイプの人間なんですよ。」と語ってから、「好き嫌いの感情を一つ

の判断基準に」というのですが、それだけではプロのDJとしてはやってい

けないとありまして、10代から70年も音楽をきいていたら、そうであり

ましょうねと思うことです。

 

戦後の終わりか

 本日の新聞に作家 大江健三郎さんの逝去が報じられていました。

 亡くなったのは、今月3日とのことで、これは奇しくも当方がひいきの小沢

信男さんと同じ祥月命日となることであります。

 大江さんはいつ頃からか、体調を崩して表舞台に登場することはなくなり、

それより前に当方は、大江さんが発表するものをフォローしなくなっておりま

したです。

 当方がフォローしようがしまいが、大江は大江でありまして、その圧倒的な

影響力は60年以上にわたって継続されたことになります。

大江と同世代の気鋭の小説家たちが、大江と同じ路線では勝ち目がないと、変更

を余儀なくされたほどの存在です。

 戦後的な価値観を体現する代表的なお一人でありまして、「九条の会」の有力

なメンバーでもありました。「九条の会」の有力メンバーである方々は、あちら

の世界に活動の場を移し、こちらの世界はポスト戦後を迎えています。

 先日に終戦の年(1945年です。)に生まれたタレントさんが、すでに戦前

であるというようなことを言ったようですが、経済の世界で、もう戦後ではない

と言われたのは1956年のことで、それから60余年を経過し、政治的にも

戦後ではないことを感じることです。

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うさぎの切手

 その昔は熱心に郵便はがきで連絡をとりあっておりましたので、あちこちの

友人のところには、当方が発信したはがきが保存(?)されているはずです。

ほとんど、一日一便は書いていましたからね。eメールというのに、手を染めて

からは、ほんとはがきを書くことが少なくなりました。

 それでも旅先から自分宛てに絵葉書を送るというのは、楽しいことなのです

が、その昔とくらべると、郵便切手などを販売しているところが少なくなって

いて、旅先で切手を入手するのに苦労したりすることです。

 つくづくと郵便をとりまく環境が変わってしまったことを感じることで。

 最近の郵便事情のことを思っておりましたら、図書館に次の本がささっていて、

借りることになりました。

 考えてみると当たり前のことになりますが、郵便切手も誰かがデザインを

して商品(?)となるわけですね。日本名画などをあしらった時であっても

デザイナーさんがかかわらないことはないのでありまして、それはどこで、誰が

やっていて、それに関しての工夫があるのだということが、この本を読むと

わかることになります。

 どうしても記念切手のようなものに、目がいってしまいますが、切手といえ

ば、普通切手といわれるものがありまして、普段使いされるのでありますね。

 小生が大きなシート(百枚で1シートだったかな)で購入した普通切手は2円

のものでありまして、郵便料金が上がって、その差額を補うのに使われるもので

した。

 当方はうさぎ年生まれということもありまして、この切手はお気にいりであり

ました。

 この本には、このうさぎ切手が販売されるにいたる経緯と仕上げるまでの苦労

話が描かれていました。

 まずは、絵柄はエゾユキウサギになったのですが、写真からこれを絵にして、

それを修正して、絵を決めるのが第一段階で、次は印刷の検討ですが、次のよう

になるのだそうです。

「特殊切手は基本的に6色を掛け合わせて印刷するのに対し、普通切手はコスト

を抑えるために色数を少なくする。コスト面のほかにも、色数が少なければ印刷

の暴れが少ない、つまり大量に刷っても色に差が出ないという利点があるそうだ。

定額面、中額面の普通切手は3色しか使わないことが多い。

 ウサギの切手は、グレーと濃い紫の2色でウサギを描き、背景は薄紫1色。

ほんとうに3色で描かれている。」

 このウサギの2円切手はかわいいと話題になって、ずいぶんと人気になった

のだそうです。うさぎ年生まれとしては、うれしい話であります。

日本の郵便切手に描かれているウサギにはどのようなものがあるのかと思い

ますが、手元にはエゾユキウサギと年賀状のお年玉くじでもらった切手が

ありまして、それのうさぎを並べてみました。

ウサギの切手  2円エゾユキウサギ

 

ゴチになります

 友人のところでおめでたいことがあったということで、お招きにあずかることに。結局はとまりがけでの祝宴となりました。

 ふつうでありましたら、お祝いを包んで出かけるのでありますが、そこは非常識な私でありまして、気楽に、手ぶらで参加くださいを、文字通りに受け取ることにです。

 すっかりゴチになりまして、ありがたいことです。

 本日は本も読まず、トレーニングもしない一日となりました。

福島には行けてないが

 2011年3月11日は東北震災の日でありました。

 それから12年となります。当方の住むところでも強い揺れを感じたので

ありますが、東北とくらべると被害は軽微で済みました。それよりも三陸

中心とする津波と、そのあとに起こった発電所の爆発には驚愕したものです。

 国の言うことなどを聞いて協力をしたら、碌なことにはならないぞと、その

時に思った人も多かったでありましょう。それからしばらくして、時の首相は

オリンピックを招致する演説で、福島の原発はアンダーコントロールと発言し

たのでありますね。

 時の首相は、自分のためか国のことを思ってか、事実と反することをいけ

しやあしゃあという人でありましたが、それはないだろうよと思った人もいた

のですよね。

 そのあとには、これまたとんでもないことを発言することで有名な日本の指

導者の一人が、原発事故で亡くなった人はいないと言って、これにも驚きまし

たです。

 それこそ、その昔に「東京に原発を」という本がありましたが、地方に住ん

でおりますと、これに強く共感することであります。 

 本日は土曜日で、午前は自宅におりましたが、家人がTV番組のなかでひいきの

宮本浩次さんの曲が流れるようだと、その予告番組を見て気づき、ちょっと番組

を見てみるよとチャンネルをあわせました。

 NHKの番組でありましたが震災後に毎年東北を訪れて番組を作っている篠山

ジュニアが担当するものですが、番組冒頭で宮本さんの曲が流れ、ジュニアが

自転車で移動するバックでかなり長く使われることになりました。

 篠山ジュニアは、この曲は、東北を訪問するときの自分の気持ちを歌っている

と語っていたのであります。

   ああ 夜明けはやってくる 悲しみの向こうに
   ああ わたしも出掛けよう わたしの好きな町へ
   会いにゆこう わたしの好きな人に


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