写真集二冊 2

 写真集二冊といいながら、もう一冊のことについて、まったく触れていません

ですね。ほんじつも昨日に引き続きで林忠彦さんの写真集についてからであり

ます。

 戦後まもなくから昭和三十年代前半くらいの日本のあちこちで撮影した写真

を見るのですが、そこには子どものころの当方が写り込んでいるような懐かしさ

がありです。

 雪国の子どもたちは、1957(昭和32)年頃の撮影とあります。どちらの町

での写真かは記されていないのですが、雪深いスキー場のある町のものです。当方

は、このころ小学校一年生ですから、長靴でスキーをはいて、ストックをついて写

りこんでいる男の子が当方の役どころでありましょうか。当方のほうが、この子ど

もよりももうすこし洒落た格好をしていたと思いたいのですが、ほとんど変わりは

ないか。

 林さんの有名な文士シリーズについては、文庫化もされていますので、他のも

のよりも手にするのは容易であるかもしれません。

文士の時代 (中公文庫)

 もう一冊図書館より借りてきた写真集は、西江雅之「顔」というものです。

顔! パプアニューギニアの祭り

 こういう本がでているのは、まったく知りませんでした。「図書館」で目にしな

ければ、ずっと縁がなかったかもしれません。まさか西江雅之さんの新刊がでると

は思ってもみませんでした。

 西江さんが撮影したパプアニューギニアの祭りでの人々の顔写真。インパク

十分であります。我が国にもお祭りの時に、顔を白塗りにしたりすることがありま

すが、これは化粧することによってオブジェのようになっています。

 この本に掲載の西江さんの文章は3ページほどの小文のみで、文章を読みたい

という人には物足りないのですが、これの参考文献リストに西江さんが岩波「図書」

(2010年 何月号かは不明)に掲載した「トロブリアンド島を訪ねる」があがっ

ていました。たぶん、2010年に目を通しているはずですが、すっかり忘れていま

すので、この文章を探してみることにします。

写真集二冊

 先日の図書館では写真集を二冊借りることになりました。大判のものではなくて、

コンパクトなものですから、写真集としてはちょっと残念なサイズですが。

一冊は昨日に話題とした林忠彦さんの「時代を語る」でありますが、これは写真家

林忠彦さんの仕事を、時代と分野を通じて見通せるようにしてあります。

目次によりますと、次のようになります。

 1 戦中のドキュメント

 2 戦後日本の歩み

 3 AMERICA 1955

    4  文士の時代

 5 時代の象徴

 6 物語る風景

 林さんがお亡くなりになったのは1990年とのことですから、もちろん写真は銀

塩アナログであります。収録されている写真は晩年のものを除くとすべて白黒となり

ます。写真の白黒って、旧字旧かなの小説を読む趣がありますね。なんかそれだけで

雰囲気が伝わってきます。

 初期の作品はドキュメントでありますが、戦時下のもので、戦争を知らない世代に

も大日本国防婦人会とか大政翼賛会推進員の活動がリアルに実感することができま

す。この中にある写真など現代の東アジアのどこかの国のマスゲームにそっくりだな

と思って、かの国はいまも戦時下を生きているのだなと思いあたります。

 このようなドキュメント写真は、やはりアマチュア写真家には無理でありますね。

なによりも、戦時下の時代に普通の家庭には写真機はありませんでしたし、フィルム

は高価で、家族の成長記録を残すのが精一杯でしたからね。

 当方は、町に残る戦前の写真にどんなものがあるだろうかと思ったことがあります

が、町並みとか風景だけを記録として写しているものは、なかなかないのですね。

 当方なんて、最近まで老母にそんなにばちばちとたくさん写真を移したらフィルム

がもったいないといわれたもので、まして今から80年近くも昔のことです。

時代を語る 林忠彦の仕事

図書館へ

 借りていた本を返しにいって、新着の棚から本を借りてきました。

こんな本がでていたのかという写真集であります。一冊目は次のものです。

時代を語る 林忠彦の仕事

 新潮社から林忠彦さんの写真が限定セットで販売されると話題にしましたが、この

ようなものもでていました。今年が林忠彦さんの生誕100年ということもあって、

出版が活発になっているようです。

 この本は周南市美術博物館 林忠彦記念室の図録を兼ねているのでしょうか。

もちろん周南市にこのような記念室があることも知りませんでした。この本の巻末に

はこの施設の紹介がありました。

周南市美術博物館は、美術、写真、歴史部門をあわせもつ人文系総合博物館として

1995年9月に開館した。周南市出身の林忠彦のほか。画家 宮崎進、詩人まど・

みちおの作品、徳山毛利家の資料など郷土の歴史資料あわせて約11,000点を収

蔵する。林忠彦記念室の設立は、1990年に林が亡くなったのを機に、当時の徳山

市が戦後写真界を牽引した林の業績を後世に残すため、全作品の収集を表明したこと

に始まる。主要なテーマを網羅して1,500点以上のオリジナルプリントを収蔵。

作品展示とともに愛用品を公開し、代表作『太宰治』を撮影した東京・銀座のバー

『ルパン』のカウンターを再現したコーナーで撮影できる。」

 周南市というのは、かっての徳山市を含むところでありますが、徳山でありますか

らしてまど・みちおさんも顕彰しているのですね。まどさんを目当てにくるひとと、

林忠彦さんを目当てのひと、どちらが多いでありましょう。

 それにしても記念室内部に「ルパン」のカウンターを模したものがあるとは、そこ

を尋ねた太宰ファンは、間違いなしで太宰と同じようなポーズで写真をとるのでしょ

うが、撮影したのを見たら、まるで間抜けにしか写らなくてがっくりとすること必至

です。

お見舞い同封あり

 本日外出から戻りましたら「本の雑誌」10月号が届いておりました。

本の雑誌424号2018年10月号

 当方は版元からの定期購読でありまして、自宅で待っておりましたら、郵便で届く

しかけとなっています。版元から購読をしますと、隔月で付録のおまけとしてはさみ

こみちらしがはいっていまして、これも含めて直接購読のお楽しみとなります。

 さらにさらに今月は、「本の雑誌」発行人 浜本茂さんからご丁寧にもお見舞い

が添えられていました。

「いつも本の雑誌をお読みいただきありがとうございます。

 このたびの地震で北海道にお住まいの方は大変な思いをされたかと存じます。

 心よりお見舞い申し上げます。」

 このようにはじまる全部で8行からなるお見舞いのメッセージでありますが、最後

には自筆(圧迫痕がありますので、そうでしょう)でのサインがありました。

 「本の雑誌」 の出来上がりがどのような日程になっているのかわかりませんが、

今回の地震が起きたのが9月6日でありまして、それからほぼ2日ほど北海道のほと

んどの地域が停電になっていましたので、函館出身の浜本さんは、雑誌があがって

発送する段階において、北海道の直販読者むけにメッセージを送らざるを得なかった

のでしょう。 

 現在、函館で書店員をしている当方の弟からは、函館の住まいは7日19時44分

に電気が通ったと連絡がありました。そういえば、転勤商売であった父と一緒に暮ら

していた弟は卒業した小学校のあった場所が、今回の震源地近くで震度7を記録した

とこでありました。その地で1968年の十勝沖地震を経験した94歳の母は、あの

時もひどい揺れで住まい近くには地割れができたからと話をしていました。

 今回の地震でお亡くなりになった老夫婦が、かってお住まいであった住居は、今は

移築されて古民家として保存され、それではまちおこし協力員の方が、天然酵母

パンをつくって販売されています。畑島ご夫婦は亡くなりましたが、生前に町に寄付

した旧宅は、いつまでも畑島夫婦の地域への思いを伝えていくことでしょう。 合掌

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よくわからないこと

 大きな地震があって一週間が経過しようとしています。いまだ余震は続いて

おりますが、震源地あたりの現状とくらべますと、30キロも離れていないのに、

ありがたいほど落ち着いてきています。近所のスーパーも野菜などは入荷が

順調で、ほぼ回復しています。いまだに入手できていないのは、牛乳などであ

りまして、近所のコンビニの話では、明朝8時には入荷する予定ですとのこと、

明日はいってみなくては。

 いまだによくわからないのは、はてなブログアクセス解析の見方というか

数字の読み方でありますね。当方のはてなダイアリーは年数を重ねていたせい

もありまして、そこそこページビューの数字があったのですが、もちろんこれは

ブログに引き継ぎがされずで、一からのスタートとなりました。

かってのダイアリーのページビューのカウントがどのような仕組みになっている

のかわかりませんが、ブログのアクセス解析にでてくる数字は、以前よりも大分

少ないかな。まあ、あんまし数字のことは気にしないことにいたしましょう。

 そんなことをいいながら、Google アナリティクス でもチェックしたりです。

 本日は水曜日でありますが、新聞朝刊に読書欄が掲載されていました。

いつもでしたら土曜日掲載となりますが、地震のせいで特別紙面になっていま

したので、それで本日にスライドしたものです。

この読書欄を見て、目に止まったのは福永信さんがあげている文庫本三冊と

都甲幸治さんがあげている温又柔さんの新作でした。

 温又柔さんの新作小説は図書館から借りていて、本日は返却日でありまし

たが、まだ読み終えることができていないので、これから読んでしまわなくては

いけませんです。

 都甲さんの書評最後の文章は、次のようになりです。

「もし日本や日本語について考えることが日本文学の役割ならば、温はその

中心にいる。」

空港時光

 

「松竹と東宝」

 先日まで光文社新書「松竹と東宝」を読んでおりました。

松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち (光文社新書)

 阪急グループを作った小林一三に関しては、数年前にTVドラマとなったりしました

し、読んではいないものの阪田寛夫さんによる伝記などもあって、なんとなくわかっ

たつもりをしておりましたが、いま一方の松竹兄弟については、ほとんど知るところ

がなく、どうして兄弟の一人が文化勲章を受けることになったのかと不思議に思って

おりました。

 どうこういっても東宝とか宝塚歌劇小林一三が作って、育てたものであります

が、松竹のほうは、双子の兄弟の役割分担とか映画部門を担った娘婿 城戸四郎の

存在もあって、ちょっとわかりにくいことになっています。

 この新書は、松竹兄弟が京都の芝居小屋の売店を経営する家に生まれて、その

才覚で次々と芝居小屋を手中におさめ、ついには歌舞伎興行を仕切るまでを描いて

います。

 松竹兄弟が関西の芝居小屋を支配して、東京へと進出するのは明治も終わり頃と

あります。東京の芝居小屋では、この松竹兄弟をどのように迎えたのであるかです

ね。いまでは、松竹の芝居小屋である歌舞伎座も、明治時代には、別の小屋主のも

のでありまして、その歌舞伎座をめぐる国盗り物語が、この本の一つの読みどころ

かと思いました。

 そういえば、何ヶ月か前に読んでいた岡本綺堂の「ランプの下にて」は、ちょう

ど松竹が初めて東京へと進出した頃の芝居見物記を収録しています。

明治劇談 ランプの下(もと)にて (岩波文庫)

「大切には初上りの中村鴈治郎がやはり歌舞伎座と掛持ちで出勤して、『近江源

氏』の盛綱を務める。・・・それでは新富座の盛綱はどかというと、わたしの

見物した日には、時間の制限のために大切の近江源氏はほんの口元だけで、・・

盛綱がこれからどれほどの技倆を発揮するか、わたしは遂にうかがい知ることが

出来なかった。・・

したがって、盛綱の方は観客に十分認められず、初上りの青年俳優に取っては

甚だ気の毒な結果を生み出してしまった。」

 関西の人気俳優 中村鴈治郎も最初の東京での舞台では、あまりうまくいか

なかったように読める岡本綺堂の文章であります。

 この中村鴈治郎の初上りが、松竹兄弟が、東京の興業界に存在感を示した

最初となります。 中村さんの「松竹と東宝」には、次のようにあります。

「かくして白井松次郎鴈治郎のマネージャーとしてだけでなく、東京でも興行

師としてデビューすることになった。・・鴈治郎歌舞伎座に出た。『盛綱陣屋』

では鴈治郎が盛綱、芝翫が篝火、『封印切』では鴈治郎の忠兵衛に芝翫の梅川と、

東西の成駒屋が、舞台の上では和やかに共演した。

 十月三日の初日から歌舞伎座は大入りとなり、松竹の東京初興業は成功した。」

 岡本綺堂さんが書くところとは、すこしニュアンスが違うようにも思いますが、

なんとなく、岡本さんの劇評のほうが同時代の東京の受け止め方のようにも思える

ことです。

 岡本さんの文庫本の巻末についている明治演劇年表の「明治44年8月」に次

のようにありです。

「松竹会社が歌舞伎座を買収せんとし、同座一部役員感に紛糾を生じたるが、

結局松竹が手を引くことになり和解す。」

 結局、松竹兄弟が歌舞伎座の経営権を手に入れたのは大正二年とのことです。

気温上がらず

 本日はすこし雨模様の一日で気温もあがらず、肌寒いくらいになりました。

本日の最高気温は15度で、この時間は13度ほどですから、あとすこし気温が

下がると暖房がほしくなります。現実にお年寄りたちは、ストーブをつけている

ことでしょう。

「北の街ではもう 悲しみを暖炉で燃やしはじめてるらしい」であります。

山崩れによって行方不明となっておられた方々は、残念ながら全員の死亡が確認

されました。救出作業に従事されていた皆様にあっては、本当にお疲れ様であり

ました。

 人口4600人ほどの厚真町では36人の方々がお亡くなりになりました。

町の人口の1%に近い数字ですから、これがいかに大変であったのかわかります。

集落によっては、ほとんど半数に近い人がお亡くなりになったようです。

 自然のおそろしさであります。当方の近所にも同じような地質条件の丘があり

まして、それが崩落したら、ご近所の人々はどうするのでありましょう。まさに

他人事ではありませぬ。

 地元の新聞には今回の山崩れでお亡くなりになった方々の葬儀のお知らせが

掲載されていました。自宅が崩壊し、地域が混乱している状態では、地域での

葬儀は難しく、親族が住む近隣の街での葬儀となったようです。

 例年でありましたら、この時期は農作物の収穫期に入りまして、美味しいもの

がいっぱいあって、一年で一番良い季節であるのですが、いかにもかなしい秋と

なりました。

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